片山豊さんが亡くなった
元北米日産社長にして
彼の地、アメリカ合衆国では「Z-CARの父」あるいは「Mr.K」とも呼ばれた
長生きだな、とは思っていたが105歳にまでも達していたとは・・・
「フェアレディZの生みの親」として有名だが、それ以前にも
ダットサンが世界にその高性能とタフネスをアピールするきっかけとなった
1958年のオーストラリア・ラリーのチーム監督をつとめていた
マシンは「富士号」「桜号」と名付けられたDATSUN210
このときのドライバーのひとりが後のNISMO初代社長の故・難波靖治さんだった
その後、氏が北米での市場調査を経て感じたことは
1960年代当時、北米で徐々に人気を得ていた欧州コンパクトカーの人気が長続きしない・・・その背景は販売を「売るだけ」の商社に頼り
それに伴ったメンテナンス体制の脆弱さと見抜いた
そのことが北米日産法人の設立に繋がっていき、後に日本車の信頼性を大いに高める
下の写真は410ワゴン(ブルーバード)
まだ日本と世界の距離が遠かった時代に
現地法人の整備レベルアップのため、ラリー経験のあるメカニックが日本から海を渡った
その中には片山氏自ら口説いた人材もいたという
そして氏の市場調査から生まれたスポーツカー
その名はDATSUN 240Z(日本名:日産フェアレディZ)
1969年のことだ
ワシはGノーズ付きも好きだが、このオーバーライダー付きの
US仕様バンパーが好きだ
このスタイリッシュにして高性能
そして信頼性も高いZカーは
たちまちMGやトライアンフといった欧州製スポーツカーに取って代わることとなる
ではポルシェはどうなったか?
1970年代半ば以降、高級化という差別化の道を歩むこととなった
このGノーズ付のZは現地で片山氏の足となっていたクルマ
氏の帰国後は氏の元秘書により乗り継がれた
黄色のボディを持つこの個体はモデル化され市販されている
後年、氏は米国自動車殿堂入りを果たすのだが
これは、経営者またはエンジニア以外では極めて異例のことだ
1960~70年代のダットサンは、欧米に続く第三勢力として、コンパクトで燃費も良く品質の高い日本車の象徴ともなったのではないだろうか
そしてなによりZカーは世界中のスポーツカーに影響を与えた
時は流れ、2000年代
一度は生産中止となったZカー
当時の日産社長のカルロス・ゴーン氏に対し
片山氏が復活を要望したとも、ゴーン氏が片山氏にアドバイスを求めたともいわれるが・・・
結果、フェアレディZは復活し、日産銀座本社ショールームには
約30年ぶりの日産復帰となったMr.Kの執務室が設けられ、ファンとの交流の場となった
ワシが好きなエピソードはね
何故Z-CARという提案したのかというと・・・
「ダットサンのエンジニアの優秀さをアメリカで示したかった」
というものなんだ
Mr.Kはエンジニアでは無かったけど、当時まだ自動車途上国だった日本のエンジニアの実力を信じていたのだのだろう
10年程前かな
宮城の確か七ケ宿でZミーティングがあって、片山氏もゲストで訪れた
ワシは仕事で行けなかったのだけど
無理してでも行けばよかったなあ
偉大な自動車人に、会ってサインもらいたかったな
サイン色紙には必ず「快走」って書いてあるんだ